UCC「永遠の0 プレミアムコレクション」キャンペーン開催

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UCC上島珈琲株式会社から、『永遠の0』に登場する航空隊機の景品模型がついてくるキャンペーンが実施されます!

 

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UCC上島珈琲株式会社は、12月16日(火)より全国のコンビニエンスストアにて対象の缶コーヒー2本に1個、小説『永遠の0』に登場する零戦を中心とした航空隊機の景品模型(全6種)が景品としてついてくるキャンペーンを実施します。また、各機体にまつわる小説『永遠の0』の世界観を踏襲したエピソードが収録されたミニリーフレットも付属しており、ファン垂涎の魅力溢れるアイテムに仕上がっています!

 

そして何と、キャンペーンオリジナル機(#1・主人公の宮部機)にまつわる紹介文がUCCホームページのキャンペーンサイトで12月1日に掲載! 興味のある方は、ぜひ覗いてみてくださいね。

 

 

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零戦二一型 主人公・宮部久蔵搭乗機

 

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零戦五二型 岩本徹三機

 

・五二型について
五二型は、零戦のなかでもっとも多く生産された機体です。それまでの三二型や二二型と同タイプのエンジンが使われているものの、排気管レイアウトを中心とした変更により最高速度が約20キロ速くなっています。攻撃面では機銃が新型の20mm機銃を搭載、火力においても強化が図られました。

 

・撃墜王 岩本徹三
五二型を駆ったパイロットたちのなかでも筆頭に挙げられるのが、撃墜王・岩本徹三氏。今回モデル化した五二型(識別番号53-104)は、ラバウルで岩本氏が飛曹長として第253海軍航空隊に所属していた昭和19年ごろの機体です。

岩本機の特徴は、なんといっても機体左側面のマーキング。これは桜をあしらったもので、その数は撃墜数を表しています。1機撃墜するごとに桜は増えていくわけですが、彼ほどの腕前ともなると撃墜した機体数もちょっとやそっとのものではありません。このマーキングが施された岩本機を遠目から見ると、おびただしい数の桜による視覚効果で機体側面が桃色にみえたといいます。

 

・『永遠の0』の主人公・宮部と岩本氏
昭和19年といえば、小説『永遠の0』の作中でも主人公の宮部と岩本氏が1年ほどラバウルでともに戦っていたという時期でもあります。

この頃のラバウルは初期の比較的のどかだった状況から一変して、激戦地となっていました。そんなラバウルにおいて岩本氏は、ある戦闘でのべ1,000機もの大軍で押し寄せたアメリカを相手にたった30機ほどの零戦を率いて退けたという逸話も残っています。この戦果を上げた中心はもちろん岩本氏で、“ラバウルの空は岩本でもつ”と称されるほど一騎当千の活躍ぶりでした。あまりのすさまじい反撃にアメリカは、「日本はラバウルに1,000機の零戦を投入している」と勘違いし増援要請を行ったというエピソードもあります。

なお、岩本氏の生涯撃墜数は200機を越えるといわれています。これは太平洋戦争における日米通して文句なしにトップのスコアです。

 

・識別番号53-104機の謎
これまでの岩本機の考証では、「識別番号53-102は21型」「識別番号53-104は52型」とする説が有力です。しかし、ラバウルで岩本氏が駆った機体に割り振られていた“53-104”と“53-102”について、それが五二型なのかそれとも二一型なのか、はたまた二二型なのか、時系列から来る繋がりや予備機の可能性なども考慮したさまざまな諸説が唱えられています。

いずれも証拠となる写真や決定的な資料が残されておらず、誰かの記憶や証言からの推察です。現時点でどれが確実な説である、と決定づけるのは非常に難しいといえるでしょう。

 

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零戦ニニ型 杉田庄一機

 

・零戦二二型について
零戦二一型に改良を施した三二型は、航続距離が短くなってしまうという問題を抱えていました。三二型で一度は短くされた主翼の長さを二一型と同じに戻し、胴体下部には燃料タンクを追加するなど航続距離に悩まされた三二型の問題点に対応・強化したのが二二型です。

二二型といえば、「い」号作戦発令に際しラバウル一帯の基地へ視察と将兵たちの激励に訪れた山本五十六長官が乗る一式陸攻の護衛機としても知られています。このとき長官機の護衛についた6機のなかに、「空戦の神様」と称されたエースパイロット・杉田庄一氏がいました。

 

・山本長官の視察と時間に几帳面な性格ゆえの悲劇
ブーゲンビル島基地へ訪れ視察と激励を行った、山本五十六・連合艦隊司令長官。司令長官自らの激励に将兵たちは鼓舞したそうです。しかしこの視察の帰路、山本長官機はアメリカの待ち伏せに遭い命を落とすことになります。アメリカは日本の無線を傍受・解析しており、山本長官が一式陸攻に乗って戻るルートや時間などの詳細な情報を突き止めていたのです。

ガダルカナルから600キロ以上も離れた場所にあるブーゲンビル島基地への視察ということもあり、日本は油断をしていました。ガダルカナルとの距離を考えれば、アメリカの戦闘機が攻めてくるとはふつうなら考えません。日本にとってここで山本長官が襲われるなど想像すらできなかったのでしょう。

不意を突かれた完全な奇襲だったこの作戦は、アメリカにとっても一種の賭けでした。アメリカはもともと航続距離が長めのP-38ライトニングにさらに長距離対応の燃料タンクを装備して作戦を決行したのですが、それでもギリギリの作戦だったといいます。往復の燃料を考えると、P-38が現場で長官機一行と交戦可能な時間はたったの数分間という短さだったのです。状況によっては、アメリカの攻撃隊は長官機一行と出会うことすらできなかった可能性も低くはなかったわけです。

山本五十六という人物は時間に対して非常に几帳面な性格として知られています。時間に几帳面だった山本長官は、このとき視察に訪れたブーゲンビル島周辺の3つの基地で分単位のスケジュールを正確にこなしていったといいます。皮肉にも几帳面ゆえ予定どおりの時刻に帰路についたことが、かえって仇となってしまったのです。

 

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九七式艦攻 淵田少佐機

 

・九七式艦上攻撃機
一見して零戦と似たシルエットを持ちながら、全長10.3メートル/全幅15.5メートル(零戦は全長9.05メートル/全幅12メートル)とそれより一回り大きなサイズの九七式艦攻。九七式艦攻は“艦上攻撃機”の名が示すとおり、空母からの出撃を想定された魚雷攻撃が中心の機体です。

 

・淵田美津雄氏
九七式艦攻といえば真珠湾攻撃での活躍で知られていますが、代表的な機体は尾翼が鮮やかな赤色で塗装された淵田機でしょう。真珠湾攻撃の開始に際し発信された有名な電信暗号文“トラ・トラ・トラ”は、淵田隊長がこの機体から母艦の赤城に宛てて送らせたものです。

 

・まったく同名の別型が存在する九七式艦攻
九七式艦攻といえば一般に中島製を指しますが、同じ名称にも関わらず完全に別設計となる三菱製の機体が存在します。これは軍が九七式艦攻をコンペで競作させていたことが理由で両方とも採用されたため、いずれも“九七式艦攻”の名を冠することになったのです。
同じ名前の2つの機体を区別するため、中島製は九七式艦攻 一号機(及び一号のエンジンを光から栄に換装した三号機)、三菱製は九七式艦攻 二号機と呼ばれました。

ちなみに三菱製九七式艦攻・二号機の特徴は固定脚となっていることです。

また九七式艦攻は後に名称が改称されました。中島製は九七式艦攻一一型(旧一号機)、九七式艦攻一ニ型(旧三号機)、三菱製は九七式艦上攻撃機六一型(旧二号機)と呼ばれるようになりました。このなかで真珠湾攻撃に出撃したタイプは九七式艦攻一ニ型(旧三号機)です。

ここで不思議に思うのは「どうして設計から異なる機体が同じ名前で呼ばれるのか?」という点。これには単純明快な答えがあります。中島も三菱もコンペに際し、要求されたスペックを超える優秀な開発仕様書を提出したのです。どちらの仕様も甲乙付けがたく、結局両方採用されることになり“2種類の九七式艦攻”が誕生することになりました。

 

 

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天山艦攻一二型 マリアナ沖 瑞鶴搭載機

 

・「九七艦攻」の後継機として開発された新鋭艦上攻撃機「天山」
今回景品ラインナップ6種類のなかでもっとも全長の長い機体です。

開発時は天山艦攻も九七式艦攻のように○○式という名称を引き継ぐ予定でした。しかし制式採用される直前に機体の命名ルールが変更となり、「攻撃機の名称は山の名前にちなむこと」となったため“天山”と名付けられました。

“天山”は、「天山」一一型として昭和18年2月から中島飛行機で生産が着手され、昭和19年3月に「天山」一二型として制式採用されました。3座艦上攻撃機の世界最高レベルと評された「天山」一二型は、昭和19年6月のマリアナ沖海戦の頃から第一線主力機として活躍しましたが、米軍艦隊の対空攻撃能力がそれ以上に増強(レーダーや近接信管砲弾の実用化)されており、日本海軍の雷撃隊は相当な被害をこうむりました。

外見的な特徴のひとつに前に傾いたように見える垂直尾翼の形状が挙げられます。駐機状態のとき機体は三点姿勢の状態で支えられているわけですが、天山は空母のエレベーターに収まるギリギリの全長サイズでした。駐機時のサイズを少しでもコンパクトしようという知恵から、あらかじめ尾翼の角度が垂直になるよう角度が付けられていたのです。こうすれば、駐機時の全長を少し短くすることができるわけです。

ちなみに空母に設置されたエレベータのサイズ制限が長さ11メートルなのに対し、天山の全長は10.86メートル。空母のエレベータに乗せるには、本当にギリギリの大きさだったようです。

 

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紫電ニ一型甲 杉田庄一機

 

・紫電と杉田庄一氏
紫電は水上戦闘機・強風をベースに、陸上戦闘機へと改修した戦闘機です。零戦や艦攻が「空母から出撃する艦上攻撃機」なのに対して、紫電は「陸上の基地から出撃する局地戦闘機」に分類されます。二一型は紫電の量産機で、甲は搭載できる爆弾の種類や数を強化したタイプです。外見上の差異として尾翼の小型化が挙げられます。尾翼の垂直安定板が改善され、操縦性と安定性が増しました。

零戦の次世代を担うことを期待された紫電。そうした重要なポジションの機体を駆った代表的なパイロットが杉田庄一氏、日本の名だたるエースのひとりです。杉田氏は120以上の撃墜数を記録するほどの凄腕で、「ニッコリ笑へば必ず墜す」を座右の銘とし自身のマフラーに刺繍していました。

杉田氏はラバウルで長官機を守ることができませんでした。それ以降、杉田氏は闘志をむき出しにしていくことになりますが、43年8月26日(19歳、上飛曹)、戦闘中に被弾し発動機火災により全身に大火傷を負い、内地へ帰還し療養しました。
回復後は大村航空隊の教官として後進の指導に当りました。この時期、同じく負傷内地送還の坂井三郎(撃墜王坂井、当時飛曹長)も44年4月に大村へ教官として着任し、杉田と会っています。
45年1月、第343空戦闘301飛行隊に配属されました。乗機は紫電21型(紫電改)でした。
45年4月15日。鹿屋で杉田区隊4機はいつものように即時待機していたところ、「敵編隊北上中」の情報が入り、1番機、3番機が滑走を開始したとたん、7~8機のグラマンが来襲しました。
司令部では一瞬判断に迷い、すぐさま離陸中止が指令されますが、両機ともそのまま離陸を続けました。このとき部隊にいたエース坂井少尉も「退避しろ!」と制止しようとしましたが、その叫びも届きませんでした。杉田の列機を勤める笠井機と4番機も離陸しようとしましたが、整備員が退避したためにチョーク(車輪止め)を外せず、結果的に1番機の杉田機にグラマンがいっせいに襲い掛かり、飛行場を出外れた高度50m付近で炎上墜落、戦死しました。
『永遠の0』の作中でも、鹿屋基地での坂井氏の制止を振り切り迎撃に向かおうとする杉田氏の最後が描かれています。
・杉田氏がこだわった編隊機動と空戦フラップ
紫電の大きな特徴のひとつに、“空戦フラップ”を実装している点が挙げられます。空戦フラップは“減速しながらの旋回”を効果的に行うことが出来る装置で、名前のとおり空戦時に威力を発揮します。
これはもともと離着陸に使用する機構でしたが、エースパイロットたちは厳しい空戦のなか腕を磨く過程でフラップを使ったときに発生する空気の抵抗を駆使し機体を急激に減速、鋭い旋回機動を実現させるテクニックを生み出しました。空戦フラップとは、そんなエースたちが編み出した技を機械的に再現できる装置だったのです。

杉田氏が所属した343空で、彼の区隊は編隊による空戦を信条としていました。
どんなときであっても、とにかく編隊を崩さないこと、杉田氏はそれを列機に徹底させたといいます。杉田氏は後輩の育成に熱心で、訓練でも自ら一緒に飛びお手本とさせていました。言葉では説明が難しいハイレベルな飛行技術も、とにかく自分の後をついてこせることで未熟だったパイロットの腕を上達させたのです。杉田氏は「無理に敵を撃墜しようなんて考えなくていい。あとを離れず、自分が撃ったら一緒に撃てばいい。照準を見る必要はない」とさえ言い切りました。杉田氏ほどの卓越した技術と経験から来る自信があればこその戦いかたといえるでしょう。そんな杉田氏の腕と熱心な指導、そして紫電に搭載された空戦フラップの存在が杉田区隊の特異な編隊機動を実現させたといわれています。

 

※11月25日17:20訂正

 

 

<DATA>

永遠の0 プレミアムコレクション
■対象商品 UCC BLACK無糖 缶185グラム/缶190グラム(北海道限定)
■12月16日(火)より、全国のコンビニエンスストアにて展開開始
※ 景品が店頭からなくなり次第終了となります。
※ 一部取り扱いのない店舗がございますので、ご了承ください。
※一部の店舗では開始日が異なります。

■ノンスケールモデル
■組み立て式モデル

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<関連情報>

UCC上島珈琲 公式ホームページ

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