教室で繰り広げられた仁義なき戦い…激アツ!「スーパーカー消しゴム」【連載:懐かし玩具アーカイブス】

更新日:2016年8月18日 20:23

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文・写真●初見健一/編集●ジマ丸(電撃ホビーウェブ編集部)

大ブームを起こしたアイテムから知られざる駄玩具まで、かつて昭和っ子たちを夢中にさせた「懐かし玩具」を、昭和キッズカルチャーをこよなく愛するレトロ系ライターが紹介する連載企画。今回のテーマは「昭和ガチャガチャ」史上最大のヒット商品となった伝説のアイテム、「スーパーカー消しゴム」だっ!

 

 

社会現象としての「スーパーカーブーム」

現れては消えていった70年代キッズカルチャーにおける各種ブームのなかで、間違いなく「最大」のものだったといえるのが、1977年前後をピークに吹き荒れた「スーパーカーブーム」だった。子どもたちから若者世代を中心に、あのブームは文字通り「熱狂」と呼ぶにふさわしい勢いで日本全土を席巻した。

 

ブーム全盛期、筆者は小学4年生だったが、いまだに忘れられない「事件」がある。当時は「道徳」の授業で、よく教育テレビ(現在のEテレ)のドラマを見せられた。たぶん『みんななかよし』というドラマだったと思うが、「スーパーカーブーム」の影響はこうしたドラマにまで及び、その日の放映内容は主人公の男の子の「スーパーカー」の写真がクラスの誰かに盗まれる、という話だった。その写真が画面に映しだされたとき、筆者は思わず「あっ!ミウラだ!」と叫んでしまったのだ。すると、とたんにクラスの男子が騒ぎだし、「なに言ってんだよ!」「あれはイオタだよ!」「そんなこともわかんねーのか!」「バカじゃないのか!」と教室が罵詈雑言で満たされた。

 

その写真の「スーパーカー」は、ランボルギーニ・ミウラではなく、ランボルギーニ・イオタだったのだ! 外観がそっくりの姉妹車だったのである。その車名をちょっと言い間違えただけで、以降1カ月ほどクラスの全男子から「生きている価値のない奴」みたいな扱いを受けた。「スーパーカー弱者」は徹底的に差別され、「スーパーカー」の知識がない人間には人権すらもない…という恐ろしい時代だったのだ!

 

上が「ミウラ」。その改良版が下の「イオタ」。ほぼ同じボディを使用しており、ライトの形状によって見分けることができるとされていたが…今見てもよくわかんないし、どっちでもいいよ!(写真は「決定版これがスーパーカーだ」(1977年) より)

 

ブームのきっかけとされているのは、「週刊少年ジャンプ」に1975年より連載が開始された池沢さとしのマンガ『サーキットの狼』だ。いわゆる「走り屋」の主人公がプロレーサーに成長していく物語だが、実在するスポーツカーがリアルに描かれ、その車名や性能、特徴までが作中で詳細に語られる設定は、当時のマンガとしては非常に画期的だった。

 

ちょうど『ワイルド7』(望月三起也/1969年)が、それまでのマンガではかなりいい加減に描かれていた拳銃をリアルに描写し、実銃に関するデータと共に提示して「拳銃ブーム」を巻き起こしたのと似ている。

 

ブーム全盛期の「週刊少年ジャンプ」(1977年)。表紙はもちろん『サーキットの狼』で、閉じ込み付録として「世界の名車カード」が付いていた。

 

『サーキットの狼』の読者である昭和男子たちは、競うように個々の車名やスペックを頭に叩き込んでいった。当時の僕らにとって作中に登場するロータスやポルシェやフェラーリは単なる「クルマ」ではなく、一種の「カッコいいキャラクター」であり、実在はするが非常にSF的でもある「未来のマシーン」だったのだと思う。

 

こうしてブームに火がつきはじめると、瞬く間に「スーパーカー」は当時の子どもたちのトレンドとなり、関連グッズの発売はあらゆる領域に及んだ。ミニカーやプラモなどの玩具はもちろん、文具やアパレル商品などにも人気の車種がプリントされるようになり、『スーパーカー図鑑』的な書籍も続々と刊行され、多くの児童雑誌で「スーパーカー特集」が組まれた。

 

当時の児童書市場には『スーパーカー大百科』などの図鑑類があふれた。

 

さらには『マシンハヤブサ』『グランプリの鷹』など「クルマが主役」的なアニメも制作され、『サーキットの狼』も1977年には実写映画化される。そして同年、我々世代には「伝説の番組」として記憶に残る『対決!スーパーカークイズ』の放映もスタート。「スーパーカー」に関する知識を一般公募の子どもたちが競い合うクイズ番組だが、全国から集まった超絶マニアのチビっ子たちが、エンジン音を聞いただけで車名を言い当てたりしていた。

 

 

多くの児童雑誌・学年誌などで「スーパーカー特集」が組まれ、付録や広告なども「スーパーカー」に関連するものが定番となっていく(写真は「テレビマガジン」(1978年)より)。

 

ブームの凄まじさを象徴するのが、1977年のゴールデンウィークに東京都中央区の晴海見本市会場で行われた「サンスター スーパーカー・世界の名車コレクション’77」というイベントだ。ハミガキなどのメーカーとして知られるあのサンスターが主催した「スーパーカー展示会」だが、当時の新聞には「晴海会場始まって以来の人出!」「4時間並んでやっと入場!」「場内は満員電車なみ!」などの見出しが踊った。

 

このイベントのチケットは一般販売されず、サンスター商品を買い、スピードくじを引いて「当たり」を出さなければ入手できない。新聞報道によれば来場者は30万人だったそうだが、この人々は「スーパーカー」を見たいがためにハミガキを買いまくり、くじを引きまくった人たちなのである。


当時、筆者のクラスにもこのイベントに「参戦」し、数々の名車の写真を撮ってきたヤツがいて、しばらくは教室のヒーローとして君臨していた。

 

 

「スーパーカー消しゴム」の登場

ことほどさように当時の子どもたちは無数の「スーパーカー」関連グッズに囲まれながら日々を過ごしていたのだが、なかでも人気を博していたのが駄菓子屋などで売られていたアマダ製などの「スーパーカーカード」だ。

 

それ以前から定番商品として存在していた「怪獣カード」や「仮面ライダーカード」同様、ブラインド形式(中身のカードが見えない)のカードくじで、当たりが出ると「専用アルバム」や「スーパーカー下敷き」などがもらえた。

 

写真がピンぼけだったり、車名の表記に誤植があったり、印刷にズレのあったりするカードも多かったが、10円ほどでコレクションできるグッズとしては非常に魅力的だったのである。

 

当時販売されていたエンゼル製「スーパーカートランプ」。表面は一番人気のカウンタック、裏面にさまざまな車種の写真がプリントされている。

 

そしてついに登場したのが、主に20円のガチャガチャのネタとして発売された「スーパーカー消しゴム」である。最初に発売したメーカーはコスモスだったというのが定説で、当初は「ハズレ商品」として製造されたという。

 

筆者の記憶ではコスモス製のものが本当に最初だったのかどうかははっきりしないが、気づいたときには通学路の文具屋などには複数のメーカーの「スーパーカー消しゴム」のガチャガチャが並んでいたと思う。どれも1回20円のタイプで、消しゴムの代わりに「当たり券」が出るとやはり「スーパーカー下敷き」や「大型ポスター」などと引き換えることができるシステムだった。

 

比較的初期のものと思われる「スーパーカー消しゴム」。『サーキットの狼』にも登場して人気を博したポルシェ930ターボだ。

 

が、多くの子どもは「当たり券」などには興味を持たず、ひたすら「ハズレ商品」である消しゴムのコレクションに熱中した。初期の「スーパーカー消しゴム」は造形がいい加減で、車体裏に「ポルシェ934ターボ」などと刻印されていても「どこがポルシェなんだ?」というクオリティだったが、それでもたった20円で立体の「世界の名車」がコレクションできるのだ。プラモやミニカーを自由に集める資金のない小学生には、その魅力は大きかった。

 

カウンタックLP500のサイズ違い。青い方はリトラクタブルライトが「点灯状態」になっているあたり、芸が細かい!

 

子どもたちの間で「スーパーカー消しゴム」コレクションがブームになるに従い、徐々にクオリティもアップし、リアルなモデルが増えていった。参入メーカーも次々と増え、カラーやサイズも豊富になり、ガチャガチャ以外にも人気車種を袋詰めにしたセット商品などが駄菓子屋などに並ぶようになっていった。

 

こちらも当時の大人気車種、ランチアストラスシリーズ3種。

 

多くの商品は裏面に車名の刻印がある。これを見ないと車種がわからないようなデキのものも多かった。

 

車体裏になぜか「じゃんけんマーク」が刻印されているものも数多く流通していた。メーカー的には「じゃんけん遊びもできるよ」というつもりだったらしいが、子どもたちには黙殺されていた。

 

カローラ、スカイライン、セリカなど、国産車も続々「消しゴム化」された。人気はイマイチだったが…。

 

実在しないメーカーオリジナル車種も登場。緑の6輪はタイレルのつもりか? 白い8輪(!)はおそらくアニメ『グランプリの鷹』に便乗したもの。
※タイレル:史上初の6輪F1として子どもたちに絶大な人気を誇ったタイレルP34。ミニカー、プラモ、ラジコンなど、さまざまな形で玩具化された。

 

こちらもタイレルっぽい謎の6輪車。車名刻印はない。こういう「クリアカラー」のモデルはそれなりに珍重された。

 

こちらは番外。ひらべったい消しゴム表面に「スーパーカー」の写真をプリントした変則的な「スーパーカー消しゴム」だ。なかなかデキはいいのだが、まったく流行しなかった。

 

 

「集めて、競って、奪い合う!」

当時、多くの小学生がお菓子の缶などにゴッソリと自慢のコレクションを溜め込んでいたが、「スーパーカー消しゴム」の楽しみは集めるだけではない。ちゃんと「遊び方」があるのだ。その中心となるのが「レース」と「バトル」だ。

 

どちらの遊びにも必須となるのが、1975年に三菱鉛筆が発売した「BOXY」シリーズのボールペンである。これはペン軸上部のボタンを押すと芯が出てきて、ペン軸側面のボタンを押すと芯が格納され、上部のボタンが定位置に戻るという機構を持っていた。この上部のボタンが戻る力を利用して、「スーパーカー消しゴム」を弾き飛ばすのである。つまり、ボールペンをブースターとして利用するわけだ。

 

当時の男子必携だった三菱「BOXY」のボールペン。側面のオレンジ色のボタンを押すと上部のノックボタンが飛び出す。

 

最初に定着した遊びは「レース」だった。教室の廊下などに適当にコースをつくり、参加メンバーが順番に各自の消しゴムを弾いて最初にゴールした人が勝ち…という単純極まりない平和な遊びだ。

 

しかし、少なくとも筆者の学校ではみんなが「レース」を楽しんでいたのはブームのごく初期段階だけで、すぐに「バトル」が主流になった。このゲームは主に机上で行う。参加メンバーは各自の消しゴムを定位置に置き(机の四隅、もしくは机の中心を囲むように円形に並べるスタイルが一般的)、じゃんけんで決めた順番で消しゴムを弾く。が、スピードや距離を競うのではなく、他のメンバーの消しゴムに自分の消しゴムをブチ当て、机から落としてしまうのである。こうしてクラッシュ合戦を繰り返し、最後まで生き残っていた人が勝ちになる。そして、勝者は敗者たちの消しゴムを「総取り」できるのである。

 

当然、ゲームは白熱する。全国の学校で「バトル」は大流行したが、案の定、これが先生やPTAの間で「子どもたちがギャンブルをやっている!」と問題になり、多くの学校で「スーパーカー消しゴム持ち込み禁止令」が発令された。

 

筆者の学校でも「禁止令」は出されたが、それでもブームの火は消えなかった。何度も先生に発覚してコレクションを「没収」されたが、そうした弾圧にもめげず、多くの男子が休み時間になるとコッソリと「非合法賭博」を繰り返していたのだ。

 

「BOXY」シリーズは三菱鉛筆が販売していたトータル文具ブランドで、ボールペンのほか、鉛筆、色鉛筆セット、ペンケースなど、さまざまなアイテムが販売されていた。「スーパーカー消しゴム」ブームよって特にボールペンが予想外の大ヒットを記録した。

 

 

「チューンナップ」の楽しみ

「スーパーカー消しゴム」には「集める」「戦う」のほかに、もう一つ、「チューンナップする」という大きな楽しみがあった。つまり、あらゆる工夫を凝らして「勝つ」ための「改造」を施すのである。ブームの後半は、この「チューンナップ」こそが子どもたちの最大の楽しみになっていった。このあたりは後の「ミニ四駆」ブームの楽しさとも通じるが、「スーパーカー消しゴム」には特に専用の強化パーツや公式のガイドブックが用意されていたわけではない。すべて子どもたちが自分たちで考え、試し、「これはイケる!」という戦法が口コミのみで全国に広まっていったのだ。

 

まず子どもたちが取り組んだのは、「スーパーカー消しゴム」本体ではなくブースター、つまり「BOXY」ボールペンの強化だ。ペン軸を分解して内部のスプリングを取り出し、これを手で引っぱってビヨ~ンの伸ばしてしまう。「バトル」前にこれをやるだけでスプリングの力は強化される。

 

なかにはもう一本の「BOXY」から取り出したスプリングで2重スプリングをつくり、これを無理やりペン軸に押し込んでしまうヤツもいた。もちろんパワーはアップするが、この状態でボールペンを使いつづけていると、いきなりバキッと音がしてペン軸にヒビが入ることもあった。

 

※発射時のイメージ

 

こんな感じで消しゴムを発射する。スプリングの強化は重要だが、やりすぎると「自滅」(敵もろとも自車も机から落下してしまう)の危険も高まる。

 

「スーパーカー消しゴム」本体の「チューンナップ」は、基本的にはどれも摩擦係数を減らしてすべりをよくし、飛距離を伸ばすことを目的としていた。

 

最初に普及したのは、車体裏にホッチキスや画鋲を刺す、もしくはタイヤ部分に小さく切ったセロテープを貼るというものだった。が、「異物を装着する」というあたりが「なんかズルい」と思われたのか、多くの場合、これは「ルール違反」とされた。

 

次に流行したのが、タイヤ部分にプラモ用の接着剤を塗布するという方法。接着剤が乾くと接地面がツルツルになり、飛距離は格段に伸びる。「セメダイン」などのチューブ入りの接着剤ではなく、ビンに入った液体状の「タミヤセメント」が最適とされ、一気に普及した。

 

「チューンナップ」に多用されたタミヤの接着剤「タミヤセメント」。付属の刷毛でタイヤ部分にのみ薄く塗布する。

 

これとほぼ同時期に、「プラカラー」などのプラモ用の塗料で「スーパーカー消しゴム」を塗装する、というのも流行する。当初、これは「勝つ」ための「チューンナップ」というより、「見た目をカッコよく」という装飾の意味合いで流行したのだが、塗装を施すと消しゴム表面が硬化し、やはり飛距離も伸びるのである。

 

おそらくはこの塗装をヒントにして、ついに「究極」にして「禁断」の「チューンナップ」方法が「発明」される。「シンナー漬け」という方法で、いわゆるシンナー、主にプラモ用塗料の薄め液のなかに「スーパーカー消しゴム」を一晩漬け込んでしまうという荒っぽいやり方だ。こうすると消しゴムはカチカチに硬化し、プラスチックのようになってしまう。サイズはひとまわり小さく縮んでしまうが、飛距離は数倍に跳ねあがる。

 

あまりに摩擦係数が少なくなると、今度は自分が攻撃されたときに弾き飛ばされやすくなってしまう。そのため、一度「シンナー漬け」にした消しゴムをさらに「プラカラー」で塗装し、適度にウェイトをアップさせたものが「最強」とされた。

 

「究極」の「チューンナップ」法だった「シンナー漬け」。文字通り消しゴムをシンナー液に漬け、数時間放置する。ゴムは弾力を失って硬化するが、大きさも8割くらいに縮んでしまう。

 

今になって考えてみると、親や先生たちが「スーパーカー消しゴム」を執拗に禁じたのは、ギャンブル要素があるというだけでなく、この遊びには「昭和の不良」たちがイケナイ用途で使用していたシンナーが深く関わっていた…ということもあったのではないかと思う。「最近、ウチの子は部屋に閉じこもってシンナーでなにかしているらしい」とか、「子ども部屋に入ってみたら部屋中がシンナー臭かった」といったことに、強烈な不安を感じた親も多かったのだろう。

 

実際、日々行われる「バトル」に勝ち続けるためには、毎日のように「シンナー漬けマシン」を量産しなければならない。子ども部屋を閉めきった状態で大量のシンナーを使った作業に熱中していると、目がチカチカしてきて、頭がボーッとしてきたのを覚えている。しかし、それもこれも明日の「バトル」に「勝つ」ためなのだ!

 

当時の小学生たちは、大人たちからいわれのない疑いをかけられ、ときには「いいかげんにしなさい!」などと怒鳴られながら、自室に閉じこもって孤独にシンナー類と格闘し、頭をクラクラさせながらも日夜「最強のマシン」づくりに励んでいたのである。

 

 

【予告】次回は「モーラー」(増田屋コーポレーション)!

次回のテーマは「昭和“ガッカリ玩具”の代名詞・モーラー」です。増田屋コーポレーションが衝撃的なテレビCMとともに1975年に発売した「モーラー」は、大ヒットを記録しただけでなく、現在も販売される超ベストセラー玩具。が、その一方で、当時の子どもたちの誰もが「金返せっ!」と怒り狂った「ガッカリ玩具」の代表でもありました。この「昭和ならでは」の傑作(?)商品の魅力と「ガッカリ」に迫ります!
※次回は6月中旬公開予定

 

●こちらの紹介アイテムもチェック!
>>スーパーカー消しゴム<<
>>ミクロマン<<
>>モーラー<<
>>カレッジエース<<

 

●筆者:初見健一
1967年、東京都渋谷区生まれ。出版社勤務を経てフリーライターに。主に1960~1980年代の玩具やお菓子、キッズカルチャーなどの話題を専門に執筆を続ける昭和レトロ系ライター。主な著書に『まだある。』シリーズ(大空出版)、『ぼくらの昭和オカルト大百科』(大空出版)、『昭和ちびっこ未来画報』『昭和ちびっこ怪奇画報』(青幻舎)などがある。

 

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